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商業的に作られた映画で面白くないものはごくありふれているが、唾棄すべきだとまで思わされるものはさほどない。しかし、ラース・フォン・トリアーが監督した「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はそうだった。これは映画史に唾し、人間を愚弄した映画だった。見終わった後、言葉通りに犯罪的だと感じた。

「芸術とはなにか」という問いに対する答えは、それが問われる時代と場所に密接なかかわりを持ちながら変化しつづけている。だがこの変化が、時代や場所やそれにかかわる主体ごとのあいだでの切断と孤立の軌跡を示すものにすぎないのであれば、芸術は時代や場所や他者性を超えて、その価値を交換することが不可能なものになるだろう。

◇ロイターの記事 イラクでのロイター記者銃撃、米軍の機密映像がネットで公開 Namir Noor-Eldeen and Saeed Chmagh   ◇wiredの記事 「ヘリによる民間人殺害」秘密映像:精密な照準技術   ◇wikileaksによるWebサイト Collateral Murder   ◇wiredの記事(現場にいた兵士のインタビュー) ヘリによる民間人殺害:現場にいた兵士にインタビュー   ◇兵士によるイラク人への公開書簡 AN OPEN LETTER OF RECONCILIATION & RESPONSIBILITY TO THE IRAQI PEOPLE * * このビデオが公開された直後、殺されたのはほんとうに「民間人」だったのかどうか、という点が問題になった。主な論点は彼らは武器を携帯していたのか、していなかったのか。あるいは戦闘に参加していたのか、いなかったのか。 それについて、このインタビューを受けている兵士はこう答えている。 『大きな問題は武器が実際にあったかどうかではなく、われわれがそこで何をしていたか、ということだと思います。』   ところで、この件に関する報道は、普段目にするような「ニュース」とは本質的に全くことなったものであることに気がつく。たとえば、この一連の報道は、特定のジャーナリズムが準備したものではない。つまり、イラク戦争からこのインタビュー報道までのすべてが、この社会でいままさに偶発的に発生している事件だと見ることもできる。そしてさらに、この兵士は、自分自身が現にこの社会に生きて投げこまれている存在として発言している。しかしそのような言葉は、現在われわれが目にするニュース報道や社会批判の言説には存在しない。   重要なことは、この兵士はニュース価値や社会批判のために発言しているわけではないということだ。アメリカ社会の中で安全で幸福な無名の人間として過ごしていた彼が、このように不安定で危険な立場で発言をしなければならない理由は、ひとつだけしかない。それは彼自身が人間としての正気を保って生きるためだ。通俗道徳としての正気ではない。それは人間としての正気だ。そうであるから、彼はおよそ非人間的な交信を続けるビデオの中の兵士たちについてこう語る。   『動画の中でのヘリの兵士たちの口調は、無神経で、事態を冗談でとらえているものですが、これは、「対応のためのメカニズム」です。私自身もそれはしたことがあります。物事に対する本当の感情を押しやるために、その状況や起こったことを冗談にするのです。 人を殺すことは簡単なことではありません。誰かの命を奪って、そのあといつものように仕事を続けることはできないのです。ずっと付きまとってくるのです。冗談を言うのは、人を殺したという思いを押しやるための手段です。だから多くの兵士が、家に戻ってきて、起こったことしか考えられない状況や、それを冗談にする人が他にいるという状況から抜け出すと