たとえば、「写真とはなにか」という問い

「芸術とはなにか」という問いに対する答えは、それが問われる時代と場所に密接なかかわりを持ちながら変化しつづけている。だがこの変化が、時代や場所やそれにかかわる主体ごとのあいだでの切断と孤立の軌跡を示すものにすぎないのであれば、芸術は時代や場所や他者性を超えて、その価値を交換することが不可能なものになるだろう。

現代美術は、この点においてあるアポリアを抱えている。一面において、現代美術の努力は多様な成果をあげてきた。しかし他方で、現代美術における多様性は、それ自体が「現代」という限定された時空にだけ通用する支配的なイデオロギーとなり、芸術の意味を果てしなく相対化する結果に陥っている。その結果、芸術に対して本質的な問いを投げかけることは困難となり、「現代」的多様性は、その実、他者的なものと交渉する力を失ったものとなっているのだ。

「アートのためのアート」の多様性を乗り越え、他者とのコミュニケーションに向かって開かれた芸術を構想するために、われわれは、今あらためて、芸術の存在意義を問い直す思考と実践を探る必要がある。

 

「芸術とはなにか」という問いに取り組むためには、現代の社会と芸術の関係を考察することとともに、その歴史に対する批評的分析を行うことが不可欠である。たとえば日本における写真表現について考えてみる場合はどうか。

近代から現代へと社会が移行する戦間期に、写真の社会的役割は大きく変化し、このとき成立した「写真」の概念が、現代に至るまで日本における「写真」という制度を規定しつづけている。(私はそのように認識している。)しかしながら、現代的「写真」概念の成立と引き換えに、それに先行して存在した「芸術写真」の真摯な追究とその高度な達成は忘却され、今なお忘れ去られたままである。そして、その忘却の事実さえ忘れ去られた後に成立した「写真」概念をもって、われわれは写真と呼ばれるものは自明であり、疑う余地などないと信じている。

もし写真家が、「写真とはなにか」あるいは「写真は芸術たりえるのか」という問いについて真剣に考えようとするなら、現在の自分が規定されている「写真」や「芸術」という制度そのものについて、歴史的射程をもった分析を加えることなしに、本質的なアプローチをすることは不可能であろう。

私自身の現在の制作のテーマのひとつは、具体的には戦前期「芸術写真」の技法再現を含めた検証である。これは近代日本の写真史の再検討であるだけではなく、ひとつの芸術ジャンルにおいて「芸術性」がいかに制度化されたかを検証する試みでもある。