イラクの「ヘリによる民間人殺害」についての報道
◇ロイターの記事
◇wiredの記事
◇wikileaksによるWebサイト
◇wiredの記事(現場にいた兵士のインタビュー)
◇兵士によるイラク人への公開書簡
AN OPEN LETTER OF RECONCILIATION & RESPONSIBILITY TO THE IRAQI PEOPLE
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このビデオが公開された直後、殺されたのはほんとうに「民間人」だったのかどうか、という点が問題になった。主な論点は彼らは武器を携帯していたのか、していなかったのか。あるいは戦闘に参加していたのか、いなかったのか。
それについて、このインタビューを受けている兵士はこう答えている。
『大きな問題は武器が実際にあったかどうかではなく、われわれがそこで何をしていたか、ということだと思います。』
ところで、この件に関する報道は、普段目にするような「ニュース」とは本質的に全くことなったものであることに気がつく。たとえば、この一連の報道は、特定のジャーナリズムが準備したものではない。つまり、イラク戦争からこのインタビュー報道までのすべてが、この社会でいままさに偶発的に発生している事件だと見ることもできる。そしてさらに、この兵士は、自分自身が現にこの社会に生きて投げこまれている存在として発言している。しかしそのような言葉は、現在われわれが目にするニュース報道や社会批判の言説には存在しない。
重要なことは、この兵士はニュース価値や社会批判のために発言しているわけではないということだ。アメリカ社会の中で安全で幸福な無名の人間として過ごしていた彼が、このように不安定で危険な立場で発言をしなければならない理由は、ひとつだけしかない。それは彼自身が人間としての正気を保って生きるためだ。通俗道徳としての正気ではない。それは人間としての正気だ。そうであるから、彼はおよそ非人間的な交信を続けるビデオの中の兵士たちについてこう語る。
『動画の中でのヘリの兵士たちの口調は、無神経で、事態を冗談でとらえているものですが、これは、「対応のためのメカニズム」です。私自身もそれはしたことがあります。物事に対する本当の感情を押しやるために、その状況や起こったことを冗談にするのです。
人を殺すことは簡単なことではありません。誰かの命を奪って、そのあといつものように仕事を続けることはできないのです。ずっと付きまとってくるのです。冗談を言うのは、人を殺したという思いを押しやるための手段です。だから多くの兵士が、家に戻ってきて、起こったことしか考えられない状況や、それを冗談にする人が他にいるという状況から抜け出すと……感情を爆発させるのです。』
これと非常に似た内容のことを、ひめゆり学徒隊の生存者が自らの体験として話している。彼女は、看護要員として動員され、防空壕の中の急ごしらえの治療室で働かされた。激しい戦闘で多くの負傷した兵士が運び込まれるなか、彼女は感情が徐々に麻痺していく。あるとき、切断された手首を持って箱に捨てようとしたとき、通りかかった兵士が「すごい女だな」と彼女を見て言う。そのとき、彼女は自分がどんな人間になってしまったのかを知って愕然とした。このことを、彼女はそれから60年以上経った現在、証言する。証言しなくてはならない彼女自身のための理由があるからだ。
ドキュメンタリー映画「ひめゆり」
http://www.himeyuri.info/
また、原爆投下後の生存者に取材した、こうの史代の漫画「夕凪の街 桜の国」の主人公は、原爆投下直後に自分が見捨てた死者に対する深い罪の意識を持つ。そしてそのためにどんな些細な幸福に対しても自分はそれに値する人間ではないと自責し続ける。
われわれが戦争について語るとき、多くの場合、戦争の悲惨を「命の尊さ」のような話に回収していこうとする。しかし、命の価値について議論が不能であるのと同じレベルで、戦争の悲惨は「命の尊さ」とは何の関係もない。戦争の悲惨は死者にあるのではなく、戦争を生きた生者の側にこそある。戦争を生きた人間の「人間としての尊厳」をおとしめ、破壊することが、戦争の最大の悲惨だ。しかしこの戦争の悲惨について、このように人間の生の問題として語られることは多くない。その理由は、わかりにくいからだ。悲惨を死と結びつけるほうが、話としてははるかにわかりやすい。それに加えて、証言が非常に困難であることもその理由になるだろう。イラクのこのパイロットが証言者として公衆の前に現れることはまずないだろう。多くの人は、彼も戦争の被害者であるとは考えず、人非人の殺人者として糾弾するだろうからだ。大江健三郎の「沖縄ノート」に対する訴訟行動も、これと同じ水準の思考によるものだ。
生の問題としての「戦争の悲惨」は、その語りにくさから、証言を得るまでに歴史化の時間が必要になることが多い。そして歴史化を経た証言は、よりフィクションとしての風合いを帯び、生の問題としての現実感は宙づりになってしまう。実際に小林よしのりが発言しているように、ひめゆりの生存者の証言は虚構だと言うことさえ可能になる。
繰り返しになるが、このイラクの「ヘリによる民間人殺害」についての報道が特異な点は、この一連の報道が特定のジャーナリズムによって準備されたものではなく、また証言者による証言だけで構成されたものでもないということだ。この一連の報道は、それ自体が、いま現に偶発的に発生している社会的な事件として存在している。Wikileakがアメリカ軍の機密情報のビデオをリークしただけなら、通俗道徳を盾にした告発というだけに留まっただろう。しかし、かつてその現場に居合わせた兵士が偶然このビデオを見て、証言のための切実な動機を持って公衆の前に現れた。このことで、この一連の事件の中心的な問題は、通俗道徳から戦争の悲惨の本質的な意味へと移った。いや、移るべきだろう。
この一連の報道が歴史化の時間を経ずに現在進行している事件として存在していること、また強靭な知性を持った証言者が戦争に悲惨について、自分自身の切実な動機のために証言していること、これらの点により、この件に関する報道は注視され、議論されるべきだろう。われわれが現に生きるこの世界とはいったい何なのか、この事件はその問題について非常に重要な示唆を与えている。