平らな世界と近代/ the Flat Earth and the Modernity
とても重要なことを思い付いたと感じたとき、常に、たいていそれは言葉で説明しがたいことのように感じる。そして結局たいしたことはないと考え、忘れてしまう。
ともあれ、それならそれで構わないのだが、今日思いついたことを書き留めておく。
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世界は平らな円盤のようなもので、その円盤の端で世界は終わっている。その世界の果てを見たものはいないし、果てに到達しようと試みたものは帰ってこない。古代、そのような世界観があったことはよく知られていることであり、またそれ以上に、現実はそうではないことも基礎的な常識として知られている。だが、ほんとうにそうだろうか。
私たちは近代という時代を生きている。すでに近代以降であるという言い方もあるだろうが、現在の世界システムは近代という人類史的体験を通過することによってモデル化されたことには違いない。この近代を支えた世界観には科学に代表される実証主義的世界観がある。それが、私たちに地球は丸く、太陽の周りを回っていることを教えている。私たちのほとんどだれもが、それを実存的体験として持ったことがないにもかかわらず。
説明を始めるとややこしくなるので、一切省いて結論を言ってしまうと、われわれが生きている近代という世界は、実は古代の世界観のような平らな世界”Flat Earth”に近い。なぜなら、この世界には果てがあるからだ。
世界の果てを見て生還したものはいないわけではない。ただ、彼らのほとんどは世界の果てを説明する言葉を持てなかった。また自分の体験の証言と説明を試みた者は、自分の言葉が誰にも届かないような経験にさらされることになる。そのため、結局のところ、世界の果てを見た者はいないことになる。
世界の果てを見て帰還し、証言を試みた人間は具体的に存在する。
たとえば西周、
福沢諭吉、
そして、Primo Levi。