λανθάνομαι: 忘却について

私たちは本質的に歴史的存在でありながら、その当の歴史についてはほとんど何も覚えていない。
自分自身を規定している歴史について、忘れたことすら忘れているからだ。
だから、われわれの歴史は忘却の歴史だと言ってみても、ほとんど、どんな意味も定かにはならない。なぜなら「忘却史」を描くことさえ不可能なほど、忘却はその痕跡ごと忘却の淵に完全に沈んでしまっているからだ。
そうであるなら、忘れたことすら忘れている、という言い方さえも、この事態について確かなことを何も示していないだろう。忘却がその痕跡ごと忘却の淵に沈んでしまうことは、「忘れる」という語が指示できる意味をはるかに超え出ている。そしてさらに、そのような「特殊な」忘却は、ほとんど普遍性を帯びているほど一般的な事態なのだ。私たちの全員が同時にその忘却を共有しているのだから。だからそれは「忘れたことを忘れている」というような2重の条件で説明されるような状態ではない。それは私たちの生き方を規定しているようなある基本的な条件なのだ。しかし私たちはそれを正確に指示する語を持たない。そのことについて思考する経験を持たないからだ。
だがそれは、古代のギリシア人にとっても同じではなかった。
<λανθάνομαι>(ランタノマイ)という語は、通常「忘却する」と訳される。しかし、この語の意味は決して私たちが知るような「忘却する」ではない。この語は、私たちの「忘れたことを忘れている」状態、つまり普遍的な盲目状態を正確に指示している。
そしてさらに重要な語として、この語の語幹である<λαθ>に否定の接頭語を付けてできた語<άλήθεια>(アレーテイア)がある。この語の意味は「非・忘却」つまり「忘れていない/覚えている」だろうか?
<λανθάνομαι>(ランタノマイ)の正しい意味が「忘却する」ではない以上、その否定語もまた「非・忘却」ではない。

<άλήθεια>(アレーテイア)が指示する意味は「真理」だ。

現在の私たちが使用する語は、もはや私たち自身を意味させることができないほどに「真理」から遠く隔たってしまっている。
 

参照:『パルメニデス』ハイデッガー  Martin Heidegger  “Parmenides”