横谷宣 写真展

正直なところ、彼の写真について何を書けばいいのかよくわからない。私にとっての、彼の作品との出会いの意味などを誰かに言いたいわけではない。そんなことは誰にも理解できないようなことだ。誰にも頼まれていないのだから、そうであるなら何も書く必要はないのだろう。しかし、人生の謎にささやかに回答するためにも、やはり何か書き留めておくべきなのだと思う。

カメラマンと写真家、商業的な仕事と作家の仕事、その違いを結果からではなく、意味の方から理解しなくてはいけなかった時期に、私は彼の作品に出会ったのだと思う。日も傾きかけて薄暗くなった彼の部屋で、写真を見せてもらい、愕然とした。それまで私は、どの写真家の写真もくだらないと思っていたが、それは私の目がおかしいからではなかった。彼の写真は、美しさのクオリティにおいて、かつて見たどの写真とも次元が異なっていた。圧倒的に美しかった。その感想は、さらにさまざまなプリントを見てきた現在も変わらない。彼の作るプリントは、全写真史の中でも最も美しいもののひとつになるはずだ。

「自由な個人の個性と感性」という空疎な物語に首まで埋まっている写真やアートに、自分はまったく辟易していた。猫がシャッターを押せば、猫の作品だと言いかねない連中と何を話すことがあるだろうか。写真の美しさの根拠は撮影者の感性などであるわけはない。そんなものが写真になにひとつ写るはずがないではないか。写真などくだらない。そう思っていた。写真に感性など無用だ。それはそうだろう。では必要なのは何なのか。それはわかっていなかった。わかっていないことすらわかっていなかった。だから彼の写真を見たとき、自分が全く理解していなかったことが何かを知らされ、打ちのめされた。

写真は感性ではない。
写真の美は技術だ。

既に良く知られているものを捨て、誰も見たことの無いものを追求しようとするとき、それは世間に背を向けて歩きだすことになる。あらゆる全ての「表現されたもの」が、ユーザーとコンテンツの関係に分解・還元され、生きる時間を気晴らしで埋め尽くされたこの日本で、深く立ち入らなくては理解できないものに踏み込もうとする人間はほとんどいない。この世の中で、ラディカルに仕事をするためには、何をあきらめて、そして何をあきらめてはいけないのかを、自力で理解する必要がある。彼のプリントを見たとき、私はようやくそのことに直面した。不平を言いつのるのではなく、歩き出さなくてはいけなかった。自分自身のために。

出会って六年ほど経つが、彼の写真を見るのはこの展覧会が三度目だ。それに、「横谷宣」という名前を字面で見るのはこれが初めてだった。

額装され、照明の工夫のされた壁にかけられた彼の写真は、やはり美しかった。しかし、薄暗い彼の部屋で、取り出された写真を手に取った時のあの衝撃は、私の個人的な体験の中にしかない。それは旅行でかつて訪れた場所を思い出すのに似ている。その場所は、旅人の体験の内側にしか存在しない。彼の写真は、いつも、そしていつまでも、私にとっては極北の場所としてある。その場所はトゥンブクトゥであり、キンシャサであり、ジェベル・マッラでもある。それは、かつて自分が、そこに立ち止まり、癒えない瑕を心に刻み、そしてそこから歩き出した場所だ。