最初に存在した想像力の経験

社会。

われわれのうちの誰もがこの言葉を知っている。
しかしこの言葉が名指しているものがなにかを、正確に知っていると言える者はいない。
なぜならこの言葉は、あらゆる日本語使用者が彼が信じるところのあらゆる意味を付与して使ってきた結果として、もはやなんらかの意味をめがけることができなくなっているからだ。この言葉はただ存在するだけだ。この世界がただあることと同じように、この言葉はどのような問いかけにも返答しない。
そのような日本語をわれわれはすぐにいくつかあげることができるだろう。

文化。
個性。
多様性。
思想。
芸術。
写真。
作品。
自由。

これらの言葉の最初に存在した想像力の経験を、われわれは完全に忘却している。
そしてわれわれはこれらの言葉の意味が自明であると信じて疑わない。
それはこれらの言葉がもはやどのような意味の射程も持たないということでもある。
しかし現在のわれわれがこれらの言葉をどのように使用するかに関係なく、
これらの言葉には、他の何とも交換不可能な固有の想像力の経験が、その最初に存在した。
これらの言葉が存在する以前、われわれはまだ名指すことができないそれ自身をめがけるように想像する努力を行為することができた。
しかしその後、いまわれわれは、これらの言葉の意味を「知っている」ことと引き換えに、もうそれを知ることができなくなっているのだ。

追記:

確実に前進するように思考することは、問いの水準を引き上げるように思考することでもある。
そのような原理的思考は、ロッククライマーが岩壁にアンカーを打つように、言葉を言説の壁に打ち込むことによって初めて可能になる。
しかし、意味をめがけて名指す力を失った言葉には、そのようなアンカーとしての機能はない。そのような言葉を使って原理的に思考することはできないのだ。

「社会」という言葉を使って社会について原理的に思考することはできない。
文化、芸術、自由、写真…いずれも同様である。