平らな世界と近代/ the Flat Earth and the Modernity

とても重要なことを思い付いたと感じたとき、常に、たいていそれは言葉で説明しがたいことのように感じる。そして結局たいしたことはないと考え、忘れてしまう。
ともあれ、それならそれで構わないのだが、今日思いついたことを書き留めておく。

flat earth map
世界は平らな円盤のようなもので、その円盤の端で世界は終わっている。その世界の果てを見たものはいないし、果てに到達しようと試みたものは帰ってこない。古代、そのような世界観があったことはよく知られていることであり、またそれ以上に、現実はそうではないことも基礎的な常識として知られている。だが、ほんとうにそうだろうか。

私たちは近代という時代を生きている。すでに近代以降であるという言い方もあるだろうが、現在の世界システムは近代という人類史的体験を通過することによってモデル化されたことには違いない。この近代を支えた世界観には科学に代表される実証主義的世界観がある。それが、私たちに地球は丸く、太陽の周りを回っていることを教えている。私たちのほとんどだれもが、それを実存的体験として持ったことがないにもかかわらず。

説明を始めるとややこしくなるので、一切省いて結論を言ってしまうと、われわれが生きている近代という世界は、実は古代の世界観のような平らな世界”Flat Earth”に近い。なぜなら、この世界には果てがあるからだ。

世界の果てを見て生還したものはいないわけではない。ただ、彼らのほとんどは世界の果てを説明する言葉を持てなかった。また自分の体験の証言と説明を試みた者は、自分の言葉が誰にも届かないような経験にさらされることになる。そのため、結局のところ、世界の果てを見た者はいないことになる。
世界の果てを見て帰還し、証言を試みた人間は具体的に存在する。

たとえば西周、
福沢諭吉、
そして、Primo Levi。

最初に存在した想像力の経験

社会。

われわれのうちの誰もがこの言葉を知っている。
しかしこの言葉が名指しているものがなにかを、正確に知っていると言える者はいない。
なぜならこの言葉は、あらゆる日本語使用者が彼が信じるところのあらゆる意味を付与して使ってきた結果として、もはやなんらかの意味をめがけることができなくなっているからだ。この言葉はただ存在するだけだ。この世界がただあることと同じように、この言葉はどのような問いかけにも返答しない。
そのような日本語をわれわれはすぐにいくつかあげることができるだろう。

文化。
個性。
多様性。
思想。
芸術。
写真。
作品。
自由。

これらの言葉の最初に存在した想像力の経験を、われわれは完全に忘却している。
そしてわれわれはこれらの言葉の意味が自明であると信じて疑わない。
それはこれらの言葉がもはやどのような意味の射程も持たないということでもある。
しかし現在のわれわれがこれらの言葉をどのように使用するかに関係なく、
これらの言葉には、他の何とも交換不可能な固有の想像力の経験が、その最初に存在した。
これらの言葉が存在する以前、われわれはまだ名指すことができないそれ自身をめがけるように想像する努力を行為することができた。
しかしその後、いまわれわれは、これらの言葉の意味を「知っている」ことと引き換えに、もうそれを知ることができなくなっているのだ。

追記:

確実に前進するように思考することは、問いの水準を引き上げるように思考することでもある。
そのような原理的思考は、ロッククライマーが岩壁にアンカーを打つように、言葉を言説の壁に打ち込むことによって初めて可能になる。
しかし、意味をめがけて名指す力を失った言葉には、そのようなアンカーとしての機能はない。そのような言葉を使って原理的に思考することはできないのだ。

「社会」という言葉を使って社会について原理的に思考することはできない。
文化、芸術、自由、写真…いずれも同様である。

イラクの「ヘリによる民間人殺害」についての報道

◇ロイターの記事

イラクでのロイター記者銃撃、米軍の機密映像がネットで公開

Namir Noor-Eldeen and Saeed Chmagh

 

◇wiredの記事

「ヘリによる民間人殺害」秘密映像:精密な照準技術

 

◇wikileaksによるWebサイト

Collateral Murder

 

◇wiredの記事(現場にいた兵士のインタビュー)

ヘリによる民間人殺害:現場にいた兵士にインタビュー

 

◇兵士によるイラク人への公開書簡

AN OPEN LETTER OF RECONCILIATION & RESPONSIBILITY TO THE IRAQI PEOPLE

*

*

このビデオが公開された直後、殺されたのはほんとうに「民間人」だったのかどうか、という点が問題になった。主な論点は彼らは武器を携帯していたのか、していなかったのか。あるいは戦闘に参加していたのか、いなかったのか。
それについて、このインタビューを受けている兵士はこう答えている。

『大きな問題は武器が実際にあったかどうかではなく、われわれがそこで何をしていたか、ということだと思います。』

 

ところで、この件に関する報道は、普段目にするような「ニュース」とは本質的に全くことなったものであることに気がつく。たとえば、この一連の報道は、特定のジャーナリズムが準備したものではない。つまり、イラク戦争からこのインタビュー報道までのすべてが、この社会でいままさに偶発的に発生している事件だと見ることもできる。そしてさらに、この兵士は、自分自身が現にこの社会に生きて投げこまれている存在として発言している。しかしそのような言葉は、現在われわれが目にするニュース報道や社会批判の言説には存在しない。

 

重要なことは、この兵士はニュース価値や社会批判のために発言しているわけではないということだ。アメリカ社会の中で安全で幸福な無名の人間として過ごしていた彼が、このように不安定で危険な立場で発言をしなければならない理由は、ひとつだけしかない。それは彼自身が人間としての正気を保って生きるためだ。通俗道徳としての正気ではない。それは人間としての正気だ。そうであるから、彼はおよそ非人間的な交信を続けるビデオの中の兵士たちについてこう語る。

 

『動画の中でのヘリの兵士たちの口調は、無神経で、事態を冗談でとらえているものですが、これは、「対応のためのメカニズム」です。私自身もそれはしたことがあります。物事に対する本当の感情を押しやるために、その状況や起こったことを冗談にするのです。
人を殺すことは簡単なことではありません。誰かの命を奪って、そのあといつものように仕事を続けることはできないのです。ずっと付きまとってくるのです。冗談を言うのは、人を殺したという思いを押しやるための手段です。だから多くの兵士が、家に戻ってきて、起こったことしか考えられない状況や、それを冗談にする人が他にいるという状況から抜け出すと……感情を爆発させるのです。』

 

これと非常に似た内容のことを、ひめゆり学徒隊の生存者が自らの体験として話している。彼女は、看護要員として動員され、防空壕の中の急ごしらえの治療室で働かされた。激しい戦闘で多くの負傷した兵士が運び込まれるなか、彼女は感情が徐々に麻痺していく。あるとき、切断された手首を持って箱に捨てようとしたとき、通りかかった兵士が「すごい女だな」と彼女を見て言う。そのとき、彼女は自分がどんな人間になってしまったのかを知って愕然とした。このことを、彼女はそれから60年以上経った現在、証言する。証言しなくてはならない彼女自身のための理由があるからだ。

 

ドキュメンタリー映画「ひめゆり」

http://www.himeyuri.info/

また、原爆投下後の生存者に取材した、こうの史代の漫画「夕凪の街 桜の国」の主人公は、原爆投下直後に自分が見捨てた死者に対する深い罪の意識を持つ。そしてそのためにどんな些細な幸福に対しても自分はそれに値する人間ではないと自責し続ける。

 

われわれが戦争について語るとき、多くの場合、戦争の悲惨を「命の尊さ」のような話に回収していこうとする。しかし、命の価値について議論が不能であるのと同じレベルで、戦争の悲惨は「命の尊さ」とは何の関係もない。戦争の悲惨は死者にあるのではなく、戦争を生きた生者の側にこそある。戦争を生きた人間の「人間としての尊厳」をおとしめ、破壊することが、戦争の最大の悲惨だ。しかしこの戦争の悲惨について、このように人間の生の問題として語られることは多くない。その理由は、わかりにくいからだ。悲惨を死と結びつけるほうが、話としてははるかにわかりやすい。それに加えて、証言が非常に困難であることもその理由になるだろう。イラクのこのパイロットが証言者として公衆の前に現れることはまずないだろう。多くの人は、彼も戦争の被害者であるとは考えず、人非人の殺人者として糾弾するだろうからだ。大江健三郎の「沖縄ノート」に対する訴訟行動も、これと同じ水準の思考によるものだ。

 

生の問題としての「戦争の悲惨」は、その語りにくさから、証言を得るまでに歴史化の時間が必要になることが多い。そして歴史化を経た証言は、よりフィクションとしての風合いを帯び、生の問題としての現実感は宙づりになってしまう。実際に小林よしのりが発言しているように、ひめゆりの生存者の証言は虚構だと言うことさえ可能になる。

 

繰り返しになるが、このイラクの「ヘリによる民間人殺害」についての報道が特異な点は、この一連の報道が特定のジャーナリズムによって準備されたものではなく、また証言者による証言だけで構成されたものでもないということだ。この一連の報道は、それ自体が、いま現に偶発的に発生している社会的な事件として存在している。Wikileakがアメリカ軍の機密情報のビデオをリークしただけなら、通俗道徳を盾にした告発というだけに留まっただろう。しかし、かつてその現場に居合わせた兵士が偶然このビデオを見て、証言のための切実な動機を持って公衆の前に現れた。このことで、この一連の事件の中心的な問題は、通俗道徳から戦争の悲惨の本質的な意味へと移った。いや、移るべきだろう。

 

この一連の報道が歴史化の時間を経ずに現在進行している事件として存在していること、また強靭な知性を持った証言者が戦争に悲惨について、自分自身の切実な動機のために証言していること、これらの点により、この件に関する報道は注視され、議論されるべきだろう。われわれが現に生きるこの世界とはいったい何なのか、この事件はその問題について非常に重要な示唆を与えている。