表現と犯罪

商業的に作られた映画で面白くないものはごくありふれているが、唾棄すべきだとまで思わされるものはさほどない。しかし、ラース・フォン・トリアーが監督した「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はそうだった。これは映画史に唾し、人間を愚弄した映画だった。見終わった後、言葉通りに犯罪的だと感じた。

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拘束されることに抗い銃撃戦になれば、その場で射殺されただろう。しかしそうはしなかった。無抵抗で投降した犯人は、人権に最大に配慮した刑法を持つ国で、身の破滅を免れている。そしてさらには、安全な法廷において、自分の正当性を開陳する権利さえも保証されている。
この事件によって、ノルウェー社会が大きなショックを受け、深い虚無に打たれていることは想像にかたくない。だが彼らは、彼らが取り組んできた人権への考察の何も恥じることもなく、また後悔することはない。この問題のほんとうの本質は刑法の在り方ではない。犯罪性に対する理解なのだ。

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今回の事件の犯人がラース・フォン・トリアーの作品に共感を持っていたという件は、偶然だろうか。私には大きな違和感はなかった。ニヒリズムを標榜しながらそれを徹底することはせずに保身を計っている両者は、非常に似通っている。犯人はラース・フォン・トリアー作品の物語を模倣したのではない。そうではなく、表現のスタイルそのものを参照したのだ。
われわれは、犯罪の犯罪性についてさらに徹底的に知らなくてはならない。

表現の自由、言論の自由は、自分とは異なる他者の尊厳を相互に承認するという近代の理念から生まれた。それらは決して自然状態で自明に存在した理念ではない。しかしこのあまりに当然の事実は、実際には十分に理解されているとはいえない。他者への不寛容、人間性に唾するニヒリズムを標榜するための表現の自由などは、われわれの世界に存在しないのだ。

思想や芸術には意味があるのか。

ひとつ言うのであれば、思想と芸術は、人間が破滅的状況に陥るときに最後のアンカー(碇)になれなくてはならない。少なくとも私にとっては、そのような強度のないものは思想と芸術の名に値するとは感じられない。そして騙りのようなそれらからは、犯罪の予感がする。

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AFPBB:ノルウェー銃乱射、容疑者の好きな映画『ドッグヴィル』の監督が「不快感」

模写/複写/抽象化

模写はひとつの連続したパターンを分析し再現する試みであり、そのいずれの過程においても画家は何らかの不連続性の介入を排除することができない。つまり原画を絵画として成り立たせている筆触の構造を本来の時間軸に沿って分解し、まったく同じ段階を経て完全に同じパターンを復元することは絶対にできない。(この構造を問題とせずブラックボックスとして処理する再現の手段は写真である。模写には構造の理解が必要だ。)画家は、そのパターンのいくつかの部分だけを認識し、それらを再現するために別の段階を経て別のパターンを作る結果になる。そこに生じやすいずれは、原画で対象の特徴を描写していた筆触が有機的な連関を失い、具体的な叙述の機能を低下させるということであろう。この意味で模写が一般にもたらすのは抽象化であるといってよい。

『湯女図』 佐藤康宏